【特別賞】海と香りと思い出と
海へ行ってみる。波が足元まで寄せる。波と同時に心地良く潮風が吹き、鼻に海の香りを運んでくる。
裸足の右足、人工の左足。もう少しで波に触れそうになったので私は後ずさりした。
「ちょっと!義足だけは海水につけないでちょうだい!」 母の大きな声が聞こえてくる。
「分かってるよ!大丈夫だから!」
私も負けじと声を張る。母は、このすがすがしい海の香りが嫌いらしく、日傘の下で嫌そうな顔をし
ている。父は、上手く開かないテントと奮闘していた。
海と向き合う。次へまた次へと重なるように波がこちらへ向かって寄せる。波がたつ度に太陽の光を
反射してきらきらと光る。目線を上げると、水平線が見えた。どこまでも真っ直ぐな水平線。さらに目
線を上げると、空の真ん中に光る太陽が眩しかった。私は目をつむった。太陽があまりに眩しかったか
らではない。この海と向き合うためである。
かつて、海沿いにあった私達家族の家。当時、私には、幼い妹がいた。一歳半の妹はやっと歩くこと
ができたぐらいだった。そう、そんなある日だった。小学四年生だった私が、教室で授業を受けている
と、とても低く、力強い地鳴りが聞こえてきたのだ。クラスメートもざわめき出した時、突然、教室
が、いや、学校全体が大きく揺れたのだ。その後の放送で地震だと知った。怖かった。しかし、悪夢は
これからだった。津波が押し寄せてきたのだ。避難のため、階段を下りる時、ガラスが割れて左足に突
き刺さった。後に、この足は切断し、義足となったのだ。避難場所に着くと、一分も経たないうちに、
下の街は波に飲み込まれた。そこには、大勢の人達が集まっていて、その中には、母と父もいた。だが、
妹は見当たらない。母に聞くと、急に涙を流し、私を抱き締めてきた。父を見ると、流される街を遠く
見つめながら、ごめんな、と一言呟いて一筋の涙を零(こぼ)していた。
海に触れる。義足が波に触れないよう、右手を波に向けた。右手に波が触れると優しくひんやりとし
ていた。今は、もっと内陸部に住んでいる。海に触れるのは久しぶりだ。あの日、街を襲った海とは、
思えない程、綺麗で穏やかだ。でも、ふいに、あの思い出が蘇る。海に奪われてしまった妹。可愛かっ
た妹のことを考えると、無意識に涙目になっていた。だが、その涙を海の香りが拭ってくれた。そうだ。
私はここに、過去を引きずるために来たのではない。足元に流れついた貝殻を拾って立ち上がる。妹の
分も楽しく生きよう、と心に決め、左足を見ると、その鉄の足が妙に誇らしく見えた。


