【特別賞】蛍の住む川
僕の家の後ろには、川があり畑もたくさんある。毎年夏の初めに黄緑色の点が草にとまっていたり、飛
んでもいる。初め見た時は、まだ蛍はいるんだと思い、その年も、次の年も、見た。いつも蛍を見るのが夏の初めの楽しみだった。でも不思議だ。川の向こうにある畑が、一ヶ月に一回のペースで消毒をしているのに、川の水はキレイだから。
それは、志賀高原の山深くの湧き水が集まり、夜間瀬川という川につらなって、家の後ろの川(八ヶ
郷)に来ているからだと思う。八ヶ郷を守る活動があり、その一人に、祖父もふくまれている。
古くから夜間瀬川の流路がほぼ現在の姿になったのは、十四世紀から十五世紀の頃と考えられているの
で、八ヶ郷の井組としての祖型は、それ以後形成されたもので、それ以前、この川がまだ扇状地を二分して西南の方向に流れ、延徳沖に入っていた頃は、氾らん原という自然条件を利用して、川東西に中野牧・
笠原牧が広がっていた。それは、遠く平安時代から鎌倉時代にかけてのことだった。
八ヶ郷村々の多くは、鎌倉時代以降これらの牧が開発され、その解体の中から成立してきたのである
が、その顕著な時期はおそらく、流路が現状に固定したあとの十五世紀から十六世紀にかけてのことで
あろう。いうまでもないが、人間の歴史は水とともにあり、村落の成立・発展に水利は欠かせない。しかるに八ヶ郷の村々は扇状地にあり、湧水や沢水にたよれる扇端・山麓以外のところは地下水が深く、用水は容易でなかった。それゆえ、村落の成立・発展には夜間瀬川からの引水は欠かせない条件であった。
こうして夜間瀬川の水利用は、まず中野扇状地から始まったのである。ただしこれが本格的になるのは、十六世紀の初め高梨氏が中野・山ノ内一帯を支配圏におさめた戦国時代のことと考えられる。
こうした村落発展の歩みは上流山の内地方おいても同様であり、金倉井牧・笠原牧(北)の開発・解
体の中から幾多の郷村が形成されていった。しかし、八ヶ郷村々とは水利の条件・形態が根本的に違っていた。というのは、この地方は山間・山麓という自然条件のもとにあって比較的水利に恵まれ、用水は近くを流れる一定の渓水や湧水で間に合っていたのである。かかる点、夜間瀬川の水に依存し、これを生命線とたのむ八ヶ郷が現在のように、夜間瀬川水系上流地域にたいして優位な水利権を保持するにいたった淵源は、ここが中野氏・高梨氏の領域支配の中心(先進)地帯であったということだけではなく、かかる用水条件の相違にも深く関係していたと、『中野八ヶ郷水利史』に書いてある。つまり八ヶ郷は、昔からあり、その歴史は長くてとてもきちょうな川だ。八ヶ郷には、蛍以外にもドジョウ、タニシの仲間、ザリガニ、サワガニがいる。昔からこの川が山からの湧水を引いていたから、蛍などが住めるのかもしれない。湧水以外にも井戸水などがある。


