【特別賞】我、生粋となりて 濁流を歩けば
周りを見渡しても何も見えない。どうしてこうなったかは分からないが、さっきから何か、俺を呼ぶ声
が聞こえる。 「起きろ、貴様」
激しく肩を揺さぶられ目を覚ますと、そこには紅い長髪を後ろで結った男と、その後ろには右手に珠
玉を持った短髪の青年が何かに腰かけている。古ぼけた切り株。男はあちこちに茶色いしみの付いた和
服、青年は甚兵衛を着ている。二人の視線に少し驚くと我に返る。
目をこすりながら周りを見渡すと、はっきり分かった。ここは吹き抜けになった森の中腹だ。それにし
ても何故俺はこんなところにいるのだろうか。確か部活から帰って部屋で着替えて、そこから記憶がな
い。
その時、俺の目を紅い何かがかすめた。
「水の生粋を汚す者と見なし、貴様のその首を落とす」 「うおぉっ」
体がとっさに動いた。それは今まで感じたことのない刃先の冷たさが、首筋に伝わったからだ。
「貴様、逃げるな。潔く首を出さんか」
鋭い眼光を光らせる赤髪の男は、今にも俺に斬りかかってきそうだ。誰か助けて。
「まだ名も聞いとらんのに斬るなんて、そんな気の速ェことしちゃいかんよォ、日向」
刀を持つ手をグイグイ絞め上げるのは青年。さっき切り株に座っていた青年だ。
舌を鳴らし、男は刀を鞘におさめる。でも、俺をにらむ鋭い瞳は変わらない。あの身軽な青年、この殺
気立った男を一発でおさえた。そんな事より、俺は一応助かったのだ。 「おい、少年。名を言ってみろォ」
青年はかがみ込むと俺のあごを手でつかみ、クイッと軽く前に引っ張った。
「えっと、白岩京介、です」
「ほォ、京介か。では京介、お前は何故ここにいるのか分かるかァ」
先程からこっちが聞きたい。ここはどこなんだ、どうして俺はここにいるんだ。青年は、
「おれァ山葵、この紅いのが日向だ」
と名乗った後に、俺の額を小さくはたいた。俺の頭の中に一つの記憶がよみがえる。 「それが、お前の醜態だ」
冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに注ぐ。勢いでコップほとんどを牛乳が満たす。それを流しに捨て
る。
「おれ達ァ水の神でねェ。昔、水ができたその時からずっとその在り方を守ってきてんだ」
どうやら俺の牛乳を直接流しに捨てた行為が、ここに連れてこられた原因らしい。
「しかも貴様、通算でもう八十六回もこの醜態を犯しているのだぞ。これはやはり打ち首獄門に相当す
る」
「本来ならそうなんだがねェ」
と山葵は俺の横にすとんと座る。日の光に照らされた彼の髪はほんのりと若草色に染まっていた。
水のあの混じりけのない純粋な透明、一見儚げに見えて多くの命を生み出す力、これらを山葵達はあ
くせく働き、どんな小さな事でも両手を上げてみんなで喜ぶことのできる人間と重ねて、「あぁ、何かを生み出す者は皆、心に生粋という言葉を持っているのだ」と、思っていた。
荒れ濁る川、ゴミの浮く海岸、いつからか人間と水との間から生粋という言葉が薄れ、遠のき始めたの
だ。
それからも山葵は、水を汚す者をここへ呼び寄せ、何度も言って聞かせるが、いつも決まって話を聞か
ずに、化け物と言って襲いかかる。それは全部日向が斬り伏せるが、残るは血生臭いにおいと、心が徐々にやせていく思いのみ。
「生粋という言葉は一にも二にも人間の心に宿ってなくちゃァならない。永遠と歌い継がなきゃいけないのに、もう終止線かァ」
ハァとため息をつく山葵。なんとなくという理由、その時自分に都合が悪かったという訳、そんな小さ
なことで気安く水を汚す人間。生活上、ここはどうしてもぬぐえないところを都合よく何にでも取ってつけて、結局はやらないのかもしれない。
「貴様の捨てた牛乳は、途中わずか何滴かになり、それがまた汚となり広がる」
日向は鞘でトンと地面をつついた。俺が一つ瞬きをすると、台所のテーブルの下にいた。元の世界に戻されたのだ。 その頃、日向は刀の刃先を見つめていた。
「京介は俺達の話を最後まで聞いた」
山葵は切り株に座り直し、珠玉を握る。
「京介はまだ歌を終わらせるつもりはねェらしい。終止線と最後だったはずの音符の間で、歯ァ食い縛ってみようと思ってるんだ」
「まぁ、あんたが見えたならそうだ。あんな人間、もう二度といないかもしれないが」
俺はふと天上を仰ぐ。二人がそう話しているのが聞こえたからだ。人間と水、両者の汚れを取り除ける
ような、小さいながらも気高く濁流を駆ける、一滴の生粋になろうと思った。


