2007年度受賞作品,  ARTIST,  AWARD,  篠澤里恵

【奨励賞】月夜の海

その昔、この海には、水の守り神がいたそうだ。その守り神は、ほとんど人間に姿を見せることはな

かったが、月夜の夜だけ、月の明かりがさえぎられた瞬間に、海の底を見せてくれる、そういう言い伝

えがあった。

漁師である祖父と一緒に暮らす海太も、もちろんこの言い伝えはよく知っていた。祖父は一度だけ、そ

の守り神様を見たことがあるらしい。でも、本当にそんな神様がいるのかなんて誰にもわからない。正直なところ、海太は神様なんて信じてはいなかった。

それでも、海太は、月の夜の海が一番好きだった。潮のにおいのする風が、優しく頬をなでていく。波

の音しかしない海岸は心地が良かった。静かに波打つ海は、月の光をキラキラと映し、幻想的な雰囲気

をただよわせていた。また、今日の月は皆既月食のため、地球の影で欠けていくところだった。少しずつ三日月になっていく月を見上げながら、波の音を聞いていた。

いよいよ月に地球の影が重なった。とたんに辺りは暗くなり、さっきまで見えていた海も、音しか聞こ

えなくなった。そのまま海岸に立っていると、海の水がいきなり沖の方へ引いていくのがわかった。波が来る、と少し後ろへ後ずさって見ていた。すると突然、海が青白く光り出した。目がおかしいのかと思って瞬きをしてみたけれど、海は確かに光っている。思わず触れようとして水に手を伸ばしたその時、海太の背丈よりも大きな波が目の前に現れた。あわてて後ろへ下がってよけようとしたがよけきれず、目をつぶった瞬間、辺りが真っ白になった。不思議と波に打たれた感覚はなかった。

次に目をあけると、辺り一面、透き通るような青だった。水の中に浮いているような感じで体が軽い。

急いで息を止めようとしたけれど、なぜか苦しくなかった。むしろ、ホッとするような、懐かしいにおいがした。

(これは……夢だろうか……)

ぼんやりと、現実味のない世界を見ていた。すると、何か、魚のような生き物がこちらへ近づいてく

る。くるくると楽しそうに、青い世界中を泳いでいる。一瞬、その生き物と目が合った。じっと海太の目を見つめ、それから来た方向へまた泳ぎ出した。ついてこい、とでもいうふうに、ちらちらとこちらを振りかえる。海太は水の中を泳ぐようにして、不思議な生き物のあとを追いかけた。

突然、目の前がまぶしくなった。何があるのか見えた瞬間、海太は、思わず息をのんだ。そこは、青い

世界の中を泳ぐ、海の生き物たちでいっぱいだった。群れをなすいわし、海底に陰れるかれい、イソギンチャクとじゃれあるクマノミ、色とりどりの熱帯魚たち。テレビで見るのとは違う、あざやかさと、力強さであふれていた。それは、海太が、まだ見たことのない海だった。 「ここは、地球の始まりからある、本当の海の底」

魚たちに見入っていた海太の耳元で、小さな声がした。さっきの不思議な生き物が、子どものような声で、歌うようにささやいている。 「すべての命が生まれる、海の底」

ふいに、自分の心臓の音が、耳に響いてきた。胸に手をあてると、とく、とく、と一定のリズムを刻ん

でいる。

「俺の、命も?」

自分で自分に問いかけるように、ゆっくり、小さくささやいてみた。

「そう。あなたの命も」

小さな声が返ってきた。

「水は、すべての命の、源だから。水がなくては、生きていけない」

不思議な生き物がくるくると泳いでいく。青い世界が、だんだんと明るくなってきた。魚たちの姿がぼ

やけて、見えなくなっていく。白い光がまぶしくて、海太は目をつぶった。

気がつくと、海太は海岸に倒れていた。起きて空を見上げると、月食で欠けていた月が満月にもどる

ところだった。海には月明かりがもどっていた。

海太は波打ち際へと歩いてみた。そして、海水を両手いっぱいにすくってみた。命の源をすくってみた。

透き通る綺麗な水は、月の光に照らされて、よりいっそう輝やいて見えた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です