【奨励賞】月夜の海
その昔、この海には、水の守り神がいたそうだ。その守り神は、ほとんど人間に姿を見せることはな
かったが、月夜の夜だけ、月の明かりがさえぎられた瞬間に、海の底を見せてくれる、そういう言い伝
えがあった。
漁師である祖父と一緒に暮らす海太も、もちろんこの言い伝えはよく知っていた。祖父は一度だけ、そ
の守り神様を見たことがあるらしい。でも、本当にそんな神様がいるのかなんて誰にもわからない。正直なところ、海太は神様なんて信じてはいなかった。
それでも、海太は、月の夜の海が一番好きだった。潮のにおいのする風が、優しく頬をなでていく。波
の音しかしない海岸は心地が良かった。静かに波打つ海は、月の光をキラキラと映し、幻想的な雰囲気
をただよわせていた。また、今日の月は皆既月食のため、地球の影で欠けていくところだった。少しずつ三日月になっていく月を見上げながら、波の音を聞いていた。
いよいよ月に地球の影が重なった。とたんに辺りは暗くなり、さっきまで見えていた海も、音しか聞こ
えなくなった。そのまま海岸に立っていると、海の水がいきなり沖の方へ引いていくのがわかった。波が来る、と少し後ろへ後ずさって見ていた。すると突然、海が青白く光り出した。目がおかしいのかと思って瞬きをしてみたけれど、海は確かに光っている。思わず触れようとして水に手を伸ばしたその時、海太の背丈よりも大きな波が目の前に現れた。あわてて後ろへ下がってよけようとしたがよけきれず、目をつぶった瞬間、辺りが真っ白になった。不思議と波に打たれた感覚はなかった。
次に目をあけると、辺り一面、透き通るような青だった。水の中に浮いているような感じで体が軽い。
急いで息を止めようとしたけれど、なぜか苦しくなかった。むしろ、ホッとするような、懐かしいにおいがした。
(これは……夢だろうか……)
ぼんやりと、現実味のない世界を見ていた。すると、何か、魚のような生き物がこちらへ近づいてく
る。くるくると楽しそうに、青い世界中を泳いでいる。一瞬、その生き物と目が合った。じっと海太の目を見つめ、それから来た方向へまた泳ぎ出した。ついてこい、とでもいうふうに、ちらちらとこちらを振りかえる。海太は水の中を泳ぐようにして、不思議な生き物のあとを追いかけた。
突然、目の前がまぶしくなった。何があるのか見えた瞬間、海太は、思わず息をのんだ。そこは、青い
世界の中を泳ぐ、海の生き物たちでいっぱいだった。群れをなすいわし、海底に陰れるかれい、イソギンチャクとじゃれあるクマノミ、色とりどりの熱帯魚たち。テレビで見るのとは違う、あざやかさと、力強さであふれていた。それは、海太が、まだ見たことのない海だった。 「ここは、地球の始まりからある、本当の海の底」
魚たちに見入っていた海太の耳元で、小さな声がした。さっきの不思議な生き物が、子どものような声で、歌うようにささやいている。 「すべての命が生まれる、海の底」
ふいに、自分の心臓の音が、耳に響いてきた。胸に手をあてると、とく、とく、と一定のリズムを刻ん
でいる。
「俺の、命も?」
自分で自分に問いかけるように、ゆっくり、小さくささやいてみた。
「そう。あなたの命も」
小さな声が返ってきた。
「水は、すべての命の、源だから。水がなくては、生きていけない」
不思議な生き物がくるくると泳いでいく。青い世界が、だんだんと明るくなってきた。魚たちの姿がぼ
やけて、見えなくなっていく。白い光がまぶしくて、海太は目をつぶった。
気がつくと、海太は海岸に倒れていた。起きて空を見上げると、月食で欠けていた月が満月にもどる
ところだった。海には月明かりがもどっていた。
海太は波打ち際へと歩いてみた。そして、海水を両手いっぱいにすくってみた。命の源をすくってみた。
透き通る綺麗な水は、月の光に照らされて、よりいっそう輝やいて見えた。


