【文部科学大臣賞】海と生きるということは・・・
立秋間近のある朝、既に空気が生温く日差しもまぶしい縁側に、父が玉の汗をかき腰掛け
ている。その先で、青色のビニールプールに由美子叔母さんがホースから水を溜めていた。
(父さんあれを膨らませたんだ…)
五歳の和也がたまらず両腕を突っ込んだ。多分太陽光で水温が上がるまでプールはおあず
けだ。
朝食の後も、和也が
「もう入れる?」「ねぇ、もう入っていい?」 と数分刻みに
大人達に聞いては、
「まだまだ」
との返事にがっかりしたり、ほっぺを膨らませたり、どんな表情も本当に可愛いこの家の
アイドルだ。
叔母さん親子がここで暮らすようになって、そろそろ五年になる。
和也が八ヵ月の赤ちゃんの頃からなので、私にとっては九歳年の離れた弟のような存在だ。
和也も「ねえね」と慕ってくれるのが何より嬉しい。
和也が生まれたのは、二〇一一年の一月一一日、叔父と叔母がこの上ない喜びをもって和也
を家族に迎えた人生最良の日。
そのちょうど二ヵ月後の三月一一日、岩手で漁師をしていた和也の父はその日から帰って
来ない。叔母たちは近所の人に促され避難して命は助かったが、家は津波に流され何もかも
失ってしまった。
乳児を抱えての困難な避難生活にも、叔母は夫の帰りを待ち望んで必死に耐えていたが、
兄である私の父の説得で故郷の甲府に一時帰って来たのである。この五年は叔母にとってお
そらく何も進んでいないだろうし、何も終わっていないと思う。
叔母の心だけがあの日に取り残されている。只一つ、叔母は父を知らない息子に父の記憶
を残すことを心の支えにしているように察せられた。
写真やビデオも津波に流され、和也に見せられる父の手掛かりが本当に乏しい中、叔母は
絶えず和也に語り伝えようと努めている。
「和也のことが大好きなパパはね、みんなから慕われた町一番の漁師さんでね、お魚たくさ
ん獲って来て、そしてね…」
聞いている和也も父親の愛情を本当に感じ取っているかのような表情を見せることもある。
そして、たくましいパパのことを和也は心から慕っているのだ。
今日の日差しはじりじりと暑く、プールの水も予想より早く適温となりキラキラと揺らめ
いている。きゃっきゃっと奇声を上げて喜んでいる和也の満面の笑みがたまらない。
そして、魚のおもちゃを釣り上げる漁師ごっこを始めると、
「ねえねぇ、おさかなたくさんとってあげますよぉ。どのおさかながいいですかぁ」
と聞いてきたので、
「漁師さん、お昼のおかずに鯵と鮪を獲って来てくださあい」
と頼んだ。大きくなったら僕の大きなお船にねえねを乗せてあげるよなんて和也は私に
言ってくれているから、ふっと、揺らめく水面が海と重なり、海で獲った新鮮な魚をご馳走
してくれる和也の姿が思い浮かんだ。気付くと隣の家から魚を焼く香ばしい匂いがしている。
「由美子叔母さん、うちもお昼魚食べたいね」 と声をかけると、どことなく寂しそうな笑顔を見せて
「そうね」
と言った。


