【ざぶん文化賞】命のみずがめ
「今年は給水制限がなかったけん、よかったのお」 と祖父が庭の水まきをしながら言った。
「水不足を心配せんでもええのは、久ぶりやの」 と祖母が応える。今年の夏の会話だ。
私の住む香川県では、一年中水不足に悩まされ、特に梅雨明けの頃から秋口までの水不足
は深刻だ。どの新聞にも、香川版には「早明浦ダム情報」が毎日記されている。それは香川 県が年間を通し、水をもらっている同じ四国・高知県のさめうら湖の貯水率だ。「命のみず がめ」といわれているこの人造湖は、私たち香川県民には不可欠な存在である。早明浦ダム の貯水率に一喜一憂しながら夏を過ごすことは当たり前の生活になり、夏休みイコール水不 足の感がある。
近年、渇水は毎夏のことで、その度に早明浦ダムの取水制限がおこなわれることになる。
時にダムを建設するために湖底に沈んだ旧大川村役場がその姿を現し、それを観たさの車が 湖畔に列をなす。一種の夏の風物詩になっている。
私が小学生の時に、貯水率がゼロになったことがあった。人々は、これからどうなるのだ
ろうかと心配したが、それは一日で解消された。台風がもたらした雨によって、貯水率は一 気に百パーセントになった。だが、よかったと思ったのはつかの間で、私は厳しい現実を目の当たりにした。
台風一過から間もないある日、家族と連れ立って早明浦ダムを訪れた私は驚いた。山肌は
崩れ、木々が倒れ、道路は落石で通行がままならず、山から滝のように濁流が流れ落ち、土 石流となって道を横断し、ダムへと落ちていた。まるで巨大な生き物が地を這っているよう だった。その水の激しさの前で人は無力だ。
母が家の回りの折れた木や、山から流れて来た土砂の片付けをしていた年配の人に声をかけた。
「いつもこんな状態ですか?」
「ああ、台風の後はいつもこんな調子や」
その人は諦め顔で続けた。
「わしらはダムがでける前から住んどるが、昔は台風が来ても山が守ってくれよったと思い よる。けんど、今は鉄砲水や土砂崩れが、よう起きるわい。山の神さんが怒っとるが。ダム を作る時に山の木を切ってしもうた。後から植えた木が根付くには何十年もかかるが。もう 昔の村には戻れんがやき。村も人も変わってしもうたろう」
悲しみとも怒りともとれる強い口調の高知弁が耳に残った。そして、その人と母のやり取りの中で、驚きの事実を知った。
ダムを作るために土地を提供させられ、生まれ育った家や慣れ親しんだ村は湖底に沈んだ。
多くの人たちが村を去り、村を離れることができずにいるのは年老いた人。そして、この土
地の人々はダムの水を飲んだり、使ったりすることはなく、ダムの恩恵にあずかることはな いのだ。この土地の人々のおかげで、今日のダムがある。今もなお、彼らは山を守ってくれて いるのだ。
別れ際、母はその人に深々と頭を下げた。私たち家族は大いなる自然と「命のみずがめ」
早明浦ダムに感謝して山を後にした。
昨日の台風十二号で早明浦ダム貯水率は百パーセントになるだろう。あの湖畔の村に思い
を馳せた。
「どうぞ、ご無事で」


