【特別賞】神沼の船遊び
春休み、母の実家があった浦和に久しぶりに遊びに来た。亡くなった祖父母の親友だった吉村さん夫妻がお花見に誘ってくれたのだ。
「桜の花びらがのったお重なんて、風流ね」母は満開を過ぎ、少し散り始めた桜の木々を眺めながらそう言うと、吉村さんの奥さんお手製のおかずを口いっぱいに頬張った。
お花見の穴場だからと連れて来てくれたこの公園には氷川女體神社という古い神社がある。木々の茂った小高い丘に建つ神社の名前の由来を聞くと、須佐之男命の奥さんの奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)が祀られているそうだ。何度その名前を聞いても、不思議な呪文のようで覚えられない。
神社へと続く階段の横には看板があり、この神社が、はるか昔、十代目の天皇である崇神天皇の時代に作られたこと、そして以前はこの辺り一帯が見沼という沼で、神沼とされたその沼では、船を浮かべたお祭り事が行われていたことが記されていた。
「御船遊神事(みふねあそびしんじ)か。それが今も毎年行われている磐船祭(いわふねさい)の起源になっていたんだ」
歴史に詳しい吉村さんが感心している。
「縄文時代に海だった一帯がその後、湿地帯になったの。この辺には貝塚もあるのよ」
母が地理の苦手な私に真剣な顔で説明するが、難しい話は頭に入ってこない。
深呼吸して空を見上げると、大きな風が吹き抜けた。一瞬だけ閉じた目を開けると、なぜか公園だったはずの辺り一面が水に沈んで、桜の木々だけが水面から顔を出している。
「神沼が戻って来たんだ!」
私が、急いで水の来ていない神社の階段へとかけ上がると、そこにゆっくりと木製の小舟が近づいてきた。船には綺麗な衣装を身にまとったお姫様のような女の人が乗っている。
「ごめんなさい。名前をまだ覚えてないんですが、あなたはナントカ姫のミコト?」
その女性は微笑んで頷くと、私を船に乗せてくれた。桜並木の遊歩道だった道も、今は船の道になっている。小舟が桜の下を進んで行くと、目の前が開けて、海のような沼が広がった。神沼の澄んだ水が、春の太陽の光を反射して輝いている。小舟がゆったりと神沼を一周すると、桜の花びらが舞い散って、お姫様の肩にのった。
「風流ですね」
私が言うと、お姫様は微笑んで、私の頭にのった花びらを二枚取り、それを私の手のひらにのせてくれた。
風が強くなって船が揺れ始めたので、神社へと戻ると、別れ際にお姫様は
「神沼を思い出してくれてありがとう」
と言って優しく微笑んだ。
小舟が遠くへと離れて行き見えなくなると、水が引いて、乾いた地面が元通り現れた。
「あのね、本当にここは神様の沼だったんだよ!」
興奮して母に説明しようとすると、
「ここに書いてあるじゃない」
母は難しい漢字が並ぶ看板を指差した。
話すのを諦めた私は、そっと握っていた手のひらを開いてみた。すると、そこにあるはずの桜の花びらはなく、ピンク色の可愛い貝殻が二枚のっていた。
「これが神様の沼の証明だ」
私はその桜貝を大事にポケットにしまった。


